2013年7月15日月曜日

森の花鳥風月 003



   

   今朝は曇り。雲を通してびっしりと重なり合った葉と葉の隙間から徐々に白い光りが届くようで、若葉の緑のちがいによって次第に森の奥行きが明らかになるようだった。さらさらとした雲のためか天空との階梯となるような鮮明な光の痕跡はない。

   昨日も早朝は雲が流れているようでしっかりとした夏の光をみることはできなかった。しかし、午前中の光を捕まえようと外へ出るとところどころに日だまりがあった。七月の空気のなかの際立った光と陰の景色は、ほんの一瞬しかあらわれないと考えて写真を撮った。午後は曇り気味だったので、偶然午前中に見ることのできた梅雨のあとの夏になり立ての光がとても貴重だと思った。光や空気のようなものを切り取って、いまこの時にここの場所にいることを表すことができれば一つの表現として成立するのではないかと考えたことを思い出した。光や空気だけでなく風や音までもと考えながら、結局自分の五感に問い合わせをしていることに気付いた。まず、光と空気によって地表の湿気や感触あるいは植物の元気さ加減を捕捉できるのではないかと思った。

   先週は沢山の白い花を巡って蜂が忙しげに行ったり来たりしていたが、今週は大分散ってしまったため数少ない白く可憐に思える野苺の花に蝶が戯れていた。外に出たはじめは気付かなかったが、いつもの落ち葉に混ざって、正確に梅雨の終わりを告げるように栗の花が散在していた。植物図鑑と照合すると、花の構造は無数の花がついた尾状花序に分類されるのだろうと思った。そのほとんどの落下した花は雄花だけの花序で、新枝の付け根に雌花をもつ雄雌同株の花は恵みの果実の季節まで上空にとどまっているようだ。ことばからしらべてみると、栗花落とは、「つゆり」と読み、梅雨の到来を示すことがわかった。改めていつの間にか夏になって抜け殻のように落下した栗の花をみると雄花だけの花序が選択されていること気付き、その選択の巧妙さを不思議だと感じた。そもそもなぜ雄花だけの花序があるのだろうと思い至った。と同時に、これらの花々も蜜源植物ということなので、人の目の届かない蜜蜂の空域で着実に自然の営みに寄与していたと考えると自然の奥深さと自分の無知さに少し頭がくらくらした。

「早寝早起きと規則正しい食事」 「マイニチ少しずつ行動すること」






2013年7月2日火曜日

森の花鳥風月 002



今朝は深夜から目覚めたまま、気がつくと辺りに野鳥のさえずりが響いていた。霧はなく、風もない。森の遥か向こうでようやく朝日がのぼりはじめたばかりなので、びっしりと重なり合った真っ黒な幹と若葉の隙間からかろうじて白く浮かび上がる空が見えるだけである。

真っ黒な中でも、よく目を凝らすと、幹と葉、さらに木々の奥行きが理解できることが不思議だ。近くの葉は一枚一枚を確認できそうであり遠くの葉は一群の塊に見える。一方、遠くの木には密度の細かい隙間を、近くの木には密度の荒い隙間を感じ取っているようだと思った。この森では木々が密集しているので、一本の木が独立して立っている姿を思い描くことが以外に難しいことだと思った。ここ木をそのまま一本だけ描くと、幹の天辺に向かって数回分岐している幹より幾分小さな枝にそってさらにもう一段階小さな枝があってそのそれぞれの小枝を起点にさらに小さな枝があってそこから空へ展開するように若葉が一枚一枚ついている。都会の街路に一本だけで立っているのとは違って、どうも幹や枝、たぶん根でつながり合っているように思えてならない。そう考えると、とたんに一本の木の輪郭が曖昧になって、自分が森の何をみているのか、びっしりと折り重なった若葉がどっと迫ってくるような気がした。

急がしそうな野鳥から目を離すと、ぱらぱらとすでにして若葉が落ちていた。ほんの少しだけ、あたかもだれにも気付かれないように落葉していた。昨夜来の雨で既存の落ち葉は、茶褐色に変化しているので、朝露に濡れた落ちたばかりの若葉が瑞々しく目に飛び込んできた。こらから夏を迎えるというのに、もう落葉による堆肥の準備が着々と進行しているのだろうかと,驚いて慌てて写真撮影した。一年の循環過程の中で生きてきたと思っていたけれど、木々の自然な振る舞いを考えると、いかに歪な時間の使い方や仕事の仕方をしてきたのかと自分の生活を振り返った。特に、仕事の分量は、このぐらいのバランスでいいんだと肚に据えて理解しようと思った。過剰すぎることを理解し、重すぎる生活を改善したいものだと思った。

「やりすぎないこと」「毎日やること」 「マイニチ少しずつやること」