2013年8月14日水曜日

森の花鳥風月 004




   今朝は曇り。早朝はからっと、鋭い日差しがほとんどない。もやっとした明け方の空気のなかでさまざまな民族のことばに呼応するかのような鳥の音から、日差しが出てきて朝食後いつの間にか、うんうんなるような底堅い連続した虫の音に変わる。さらに、どこかでコーラスやテニスの練習が始まって、夏らしい豁然としてきらきらした光景が森のなかに広がっていることがわかる。どういうことか、午前から午後に移るとあまり音の記憶がない。さらさらと上空の若葉がそよぐ風の音がしたような音の記憶の欠片があるだけのことに気付く。

   木々は静かに立っているだけのようだけれど、ものすごい勢いで地面から水を吸い上げ膨大な数の一枚一枚の葉にそれを行き渡らせながら、花から果実をつくり、また、確実に葉を落としている。夕方、熊手で地面に散乱している枯れ葉を掻き集めているのに、つぎの朝には、はらはらと落ちた新たな落ち葉が地面を飾っている。いまは、若葉のまま落ちてくるものが多く、黄色や茶色に紅葉?というか早熟な落ち葉は少ないけれど確実に増えている気がする。よく考えると、立秋を過ぎているので、このような秋の兆しがところどころに現われていてもおかしくないのだと、ひとりで納得した気がした。

   栗の木の下の落葉を掃きながら花序はもうないなと思っていると、まだ黄緑の初々しい栗の実の赤子をみつけた。屈んでよく観察しているとぽつりと頭に落ちてくるものがあった。どうやら、つぎの栗の赤子がぽつりと頭に落ちてきたようだった。外に出るときは、何が降ってくるかわからないので大抵フードを被っているのだけれども、ぽつりととても柔らかいやさしい感じを体感した。外観はまさに栗の棘のようなので手に刺さると痛そうだと思って恐る恐る手に取ってみたら、まだ棘自体が赤ちゃんのようでやわらかく、棘のようなかたちの若葉のようだと思った。手に乗せて眺めているうちに、この自然物は、棘のイメージからかどこかしら海洋生物の系譜を受け継いでいるのではないかということを思い描いた。森がいつの間にか海になり、海が森に変わったらどうなるのだろうと思いつつ、栗の毬がウニの棘に似ていることの不思議さに何か意味を見出そうとしていることに気付いた。

   「ウバユリ」は、いくつもの株は離れたところにあるにもかかわらず、一斉に花を落とし、花から種子を形成する段階に入ったようだ。視覚を使わずに、想像のなかで地面からニョッキリ出てくる植物的なる造形物の茎の先端に有機的かたちを頭に思い描いたら、まさにこうなるという模範解答のような外観をしていると思った。しかし、これは外側からの造形ではなく、内側から自然に必然的に生まれたかたちなんだということを思い返し、この内側からのあふれるような力強さを体得したいものだと考えた。

 「早寝早起きと規則正しい食事」









2013年7月15日月曜日

森の花鳥風月 003



   

   今朝は曇り。雲を通してびっしりと重なり合った葉と葉の隙間から徐々に白い光りが届くようで、若葉の緑のちがいによって次第に森の奥行きが明らかになるようだった。さらさらとした雲のためか天空との階梯となるような鮮明な光の痕跡はない。

   昨日も早朝は雲が流れているようでしっかりとした夏の光をみることはできなかった。しかし、午前中の光を捕まえようと外へ出るとところどころに日だまりがあった。七月の空気のなかの際立った光と陰の景色は、ほんの一瞬しかあらわれないと考えて写真を撮った。午後は曇り気味だったので、偶然午前中に見ることのできた梅雨のあとの夏になり立ての光がとても貴重だと思った。光や空気のようなものを切り取って、いまこの時にここの場所にいることを表すことができれば一つの表現として成立するのではないかと考えたことを思い出した。光や空気だけでなく風や音までもと考えながら、結局自分の五感に問い合わせをしていることに気付いた。まず、光と空気によって地表の湿気や感触あるいは植物の元気さ加減を捕捉できるのではないかと思った。

   先週は沢山の白い花を巡って蜂が忙しげに行ったり来たりしていたが、今週は大分散ってしまったため数少ない白く可憐に思える野苺の花に蝶が戯れていた。外に出たはじめは気付かなかったが、いつもの落ち葉に混ざって、正確に梅雨の終わりを告げるように栗の花が散在していた。植物図鑑と照合すると、花の構造は無数の花がついた尾状花序に分類されるのだろうと思った。そのほとんどの落下した花は雄花だけの花序で、新枝の付け根に雌花をもつ雄雌同株の花は恵みの果実の季節まで上空にとどまっているようだ。ことばからしらべてみると、栗花落とは、「つゆり」と読み、梅雨の到来を示すことがわかった。改めていつの間にか夏になって抜け殻のように落下した栗の花をみると雄花だけの花序が選択されていること気付き、その選択の巧妙さを不思議だと感じた。そもそもなぜ雄花だけの花序があるのだろうと思い至った。と同時に、これらの花々も蜜源植物ということなので、人の目の届かない蜜蜂の空域で着実に自然の営みに寄与していたと考えると自然の奥深さと自分の無知さに少し頭がくらくらした。

「早寝早起きと規則正しい食事」 「マイニチ少しずつ行動すること」






2013年7月2日火曜日

森の花鳥風月 002



今朝は深夜から目覚めたまま、気がつくと辺りに野鳥のさえずりが響いていた。霧はなく、風もない。森の遥か向こうでようやく朝日がのぼりはじめたばかりなので、びっしりと重なり合った真っ黒な幹と若葉の隙間からかろうじて白く浮かび上がる空が見えるだけである。

真っ黒な中でも、よく目を凝らすと、幹と葉、さらに木々の奥行きが理解できることが不思議だ。近くの葉は一枚一枚を確認できそうであり遠くの葉は一群の塊に見える。一方、遠くの木には密度の細かい隙間を、近くの木には密度の荒い隙間を感じ取っているようだと思った。この森では木々が密集しているので、一本の木が独立して立っている姿を思い描くことが以外に難しいことだと思った。ここ木をそのまま一本だけ描くと、幹の天辺に向かって数回分岐している幹より幾分小さな枝にそってさらにもう一段階小さな枝があってそのそれぞれの小枝を起点にさらに小さな枝があってそこから空へ展開するように若葉が一枚一枚ついている。都会の街路に一本だけで立っているのとは違って、どうも幹や枝、たぶん根でつながり合っているように思えてならない。そう考えると、とたんに一本の木の輪郭が曖昧になって、自分が森の何をみているのか、びっしりと折り重なった若葉がどっと迫ってくるような気がした。

急がしそうな野鳥から目を離すと、ぱらぱらとすでにして若葉が落ちていた。ほんの少しだけ、あたかもだれにも気付かれないように落葉していた。昨夜来の雨で既存の落ち葉は、茶褐色に変化しているので、朝露に濡れた落ちたばかりの若葉が瑞々しく目に飛び込んできた。こらから夏を迎えるというのに、もう落葉による堆肥の準備が着々と進行しているのだろうかと,驚いて慌てて写真撮影した。一年の循環過程の中で生きてきたと思っていたけれど、木々の自然な振る舞いを考えると、いかに歪な時間の使い方や仕事の仕方をしてきたのかと自分の生活を振り返った。特に、仕事の分量は、このぐらいのバランスでいいんだと肚に据えて理解しようと思った。過剰すぎることを理解し、重すぎる生活を改善したいものだと思った。

「やりすぎないこと」「毎日やること」 「マイニチ少しずつやること」




2013年6月24日月曜日

森の花鳥風月 001







今日も朝から曇り。六月に入ってからは森の上空を雲が覆っているようで日が高くなるまで光が射さないことが多い。また、気候が変わりやすくなり、いつの間にか木漏れ日や木々の陰がなくなって、ふっと森全体が静かになると激しい雨が降ることがある。そのようなときには、野鳥が飛散して、どこかに行ったのだろうと思う。が、彼らがどこに行ったのか、その行動は皆目わからない。

束の間の晴れ間に洗濯物を干そうとドアを開けると直径10cm以上、長さ2m位の枝がごろんと転がっていた。空を見上げてしばらく目を凝らすと一本の高木の枝が折れているのがわかった。地面にある折れた枝をみると非常にもろく、野鳥の啄んだ痕跡が同じ方向に沿って無数あった。この枝は直径では野鳥の住処にするには小さすぎるので、野鳥は昆虫を目当てにこの枝を突いていたのだろうと思った。とはいうものの、あまりに執拗な穴の痕跡に、野鳥がこの枝のもとになっている本体の木の生育を考慮して、あるいは、この枝によって森の日の当たらない部分を考慮して、さらに、いいかえると森の生態全体を考えてこの枝を突いていたのだろうか、と推測した。森の中で大きな木の枝が折れて、人の気付きやすい場所に屋根や車に当たって何かを破壊することなくごろんと転がっていた。偶然なのか、必然なのか、自然としか言いようもない枝の折れと落下であった。

また、洗濯物を干そうとすると、山荘南側の一番目立つところにいつの間にかに蜂の巣がつくられていた。あまりにあからさまな蜂の巣の有り様にあきれて、早速それを廃棄しようとした。ところが、健気に巣をつくっている女王蜂と対面したら、精巧な巣とささやかな未来の可能性に思い至りその気は失せた。それに、すでに今年は数匹の女王蜂の死を見送っているので,蜂目の動向が気になっていた。女王蜂の巣作りにとって雨露や風がしのげることがこの場所の選択にとって重要であったのだろうと思った。が、このような目立つ場所に巣をつくることによって、他の昆虫や野鳥にはどのような影響を与えることになるのだろうかとも考えた。あまりに目立つ場所につくることによって、女王蜂は人間の干渉もとりあえずは回避できたといえるのだろうか。このように考えること自体が人間のおごりなのだろうか。

—偶然、必然、自然 取捨選択




2013年6月18日火曜日

時間の音





今日は朝から曇り、ここのところすっかり気候が変わって暑いので、まだ暗い早朝から起きてしまう。それでも、野鳥は鳴いている。なんと擬音化すればよいのかわからない。目の前にある問題から解決したいと思う。


ふと外をみると、最大限の若葉が広葉樹に鈴なりに生い茂っていることに改めて驚く。以前はその抜こう側の青空が幹や枝を透かしてみえていたのに、いまはうっそうと生い茂った木々の向こうにようやく空があるといった感じになっている。びっしりとつまった葉が、一枚一枚それぞれの木々の幹さらには枝に連なっていると思うとその膨大でありながら一つ一つ着実な生み出すこと有り様に圧倒される。
この葉は、枯れ葉になって土になる。そのため、一部は堆肥になるよう別枠で保存する。どういう仕組みかわからないけれど、針葉樹の落ち葉を混合して土に寝かせておくと苔むして新たな風景をつくり出す。
また、暖炉に乾燥した落ち葉は着火剤を誘発する重宝な材料になる。暖炉には、落ち葉、小枝、牛蒡位の枝、大振りの枝、幹の順序で焼べる。燃え終わると、炭や灰がのこる。これがまた、堆肥になったり、窯作業の釉薬や触媒になったりする。小気味いいほど無駄なところがない。一つとして同じものがない多様性そのもののような森のなかで、考えても答えの出ないこと、やってみなければわからないことにあたっているのだということを強く感じた。

「自然の幽寂なるささやき」とは何か



2013年5月24日金曜日

皐月の満月



今日は朝から晴れ、満月のせいか頭のなかばかり冴えていて早朝から起きてしまう。ぐるぐると空回りしているようで気持ちばかりが焦っている。これだけ朝早いと、日中は体温が下がって生活が停滞してしまうのが困りものだと思う。

外に出るといつの間にか、日差しが夏のようで、また幹と枝だけだった木々に目をみはるほどの葉がついていた。植物と太陽の運行の周到さに恐ろしい絡繰りがあると思うほど抜け目がなく確実な出来事が進行していることを知った。さまざまな植物が、梅雨の前、夏至のまでの日差しに合わせ思い切り葉を広げていることが感じられる。今日はシーツと布団カバーを洗濯して、外に出て布団も干そうと思った。
一つサイクルを終えて、ぐるぐる頭の中で試行錯誤し、次のサイクルの方向を検討しているけれど、なかなか答えはみつからない。再び、ささやかな場所と道具から、世界に発信する何かを生み出すために、このささやかさの可能性をものづくりの起源となる物語に引き合わせ、よくよく精査しようと考えた。
— おいしいお豆腐とは何か

2013年4月5日金曜日

サメタ ミルクティ

生活の様式は時間、部屋の片付けは空間のそれぞれについて、あれこれ最善の解決策を考えながら、なにやら仮住まいのような時空間のなかで、ようやく自分の明滅の加減を感じ、せわしなく明滅する「ひとつの青い照明」だったことに思い至った。
自分は何者なのか、何をする人なのか、何をしたいのか、慌ただしい日本の現代生活に抗って、その基本の意味を自分に問い続けていくことにする。源泉に遡行することは、とてつもなく迂遠な、いまさらなことだけれど、いま自分のいるところは、ささやかな場所と道具があるだけなので、ここから世界に発信する何かを生み出すために、このささやかさの可能性をものづくりの起源となる物語に引き合わせ、よくよく精査したいと考えた。

板と布と紙のような基底面に、独自の肌理をつくった上で、そこに線描で何かを描く。
現在の材料と道具で最大限の付加価値を生み出す方策としてこの方法論を遂行する。いまのところ、絵画のような彫刻のような、美術の分野を縦横に往復しつつ、結局、建築空間に対峙できるような、愛玩物を指向して試行する。

ーおいしいお豆腐とは何か

2013年3月17日日曜日

繭のなかの森



---日本語

英国から帰国してほぼ二週間が経った。はじめの一週間は急性胃腸炎のため寝込んでいた。次の週は、
確定申告と国際学会へ投稿する論文の担当分草稿と各種来年度の職の確保のための申請書と今回の訪問の報告書の提出の締め切りが重なっていて、大騒ぎの週となった。展示の打診があったが、結局まとまりきらずそれは見送った。そのため、英国滞在中お世話になった方々へのお礼のご挨拶ができず、ずるずると日本語生活に浸っていたので、改めて英文を書くとなると、自分なりになにやら儀式が必要な気がしてさらに、お返事が遅くなってしまっている。
--- とりあえず、日本語で書きたいことを書いてみることにした。

半年不在だったので、確定申告はともかく、年金、健康保険、水道、ガス、電気、携帯電話、インターネット、車の保険、車検等請求書が溜まっていて、それだけでもお腹を下しそうな事態だった。特に、電気代が変調を来していて、不在なのにも拘らず料金だけはファーストクラスの待遇であった。

---二週間くらしてみて、どうもこの日本という国は、なにやら真綿で包まれているような、肝腎なことが覆い隠されているような気がしてならない。それは、一言でいうと、日本の賞味期限は切れたということである。たぶん、明治維新後、第二次大戦後、ヨーロッパやアメリカから学んで蓄積してきた先人の知恵と努力の成果は、現代日本人によって浪費し尽くされてしまっているのだと思う。海外から日本に何かを学ぼうとする人々に、何を教えることができるのだろうか。本当に価値のある事物は、表層を恣意的にたどる日本の情報メディアには、幸いにも黙殺されているのだろうか。
 アイルランド人、ウエールズ人、アイランド人、スコットランド人、イングランド人、フランス人、スペイン人、コロンビア人、ブラジル人、スイス人、スロバキア人、バスク人、イラン人、トルコ人、クエート人、サウジアラビア人、インド人、インドネシア人、ナビビア人、ガーナ人、ナイジェリア人、ベトナム人、マレーシア人、シンガポール人、中国人、韓国人、ロシア人、カナダ人、アメリカ人、フィリピン人、オーストラリア人、ニュージーランド人、ドイツ人、オランダ人、ベルギー人、イタリア人… 
 おおよそ日本人だけの日本語だけの社会において、異なる価値観を理解する想像力、一方で、世界の人々が思いつかないような創造的なことを発想できる構想力を養い育てることができるのだろうか。そもそも社会にとっての価値の源泉やなんで生きているのかその意味を現代日本社会に生きていてその日常の生活から汲み取れるのだろうか。自分は何者なのか、何をする人なのか、何をしたいのか、慌ただしい日本現代生活に抗って、その基本の意味を自分に問い続けていくことにする。