2023年4月1日土曜日

ソースとの繫がり、ソースと調和している状態 が 気分の良さ、いい気分でいる、本当に自分でいる状態 安堵感、安心感  リラックスしている状態  なにもなくても すべてある 無条件の愛に満たされている  → 催眠と覚醒のハザマ 愛しかない 天の国の世界―別次元 自分の内のなかに存在している

大切なこと #ハッピーちゃん #エイブラハム#節目ごとの意図確認

20230331 Happyちゃん✺当たり前すぎて説明してなかった💦最強な方法✨ #happyちゃん #ハッピーちゃん #エイブラハム ささやかなことだけれど、 とっても大切なこと 自分の気分をワンシーンごと 節目ごとの意図確認0エイブラハム  あなたが何かを欲しがるのはなぜですか?手前の物質的なものを欲しいのはなぜか?   自分がどんな気分でいたいのか  今日のお気に入りのワンシーンは何ですか? 何をもっていい気分になるのですか? なんでこんなにも 気分のいいことを求めるの?    ソースに繋がっているとき  本当の自分 無条件の愛を感じるとき ものではない ものでない・ものである という2元論ではない 自分の内側のソースとの調和 安心していたい 安堵感の中でいたい ―自分の内側に聞いてあげる

2018年7月16日月曜日

ブログの可能性


−−− 久しぶりにブログに何ごとかを書き連ねる。

まだ、この世に生き残っていたので、ブログを書くという活動もその空間と時間を与えていただいた。

手書きの手記が残されていれば、自分の何がしかの痕跡がこの世界に残ったかもしれないと思っていた。しかし、何ごとにつけ電子化され紙幣すらない国家が出現するいま、もっと気軽にブログに書き散らかして、いい、もっと自由な場所を電子空間上に欲しいと考えた。

かくかくしかじか、宇宙からのインスピレーションやら、夏詣で頭を一撃されたからか、
落雷の閃光にうたれからか、自分のためのブログを自分のために書くことにした。
自分の制作を自分で研究する研究の延長線上に自分を、自分の肚の底の底の底を探索するこのブログがあるのだろう。


2013年8月14日水曜日

森の花鳥風月 004




   今朝は曇り。早朝はからっと、鋭い日差しがほとんどない。もやっとした明け方の空気のなかでさまざまな民族のことばに呼応するかのような鳥の音から、日差しが出てきて朝食後いつの間にか、うんうんなるような底堅い連続した虫の音に変わる。さらに、どこかでコーラスやテニスの練習が始まって、夏らしい豁然としてきらきらした光景が森のなかに広がっていることがわかる。どういうことか、午前から午後に移るとあまり音の記憶がない。さらさらと上空の若葉がそよぐ風の音がしたような音の記憶の欠片があるだけのことに気付く。

   木々は静かに立っているだけのようだけれど、ものすごい勢いで地面から水を吸い上げ膨大な数の一枚一枚の葉にそれを行き渡らせながら、花から果実をつくり、また、確実に葉を落としている。夕方、熊手で地面に散乱している枯れ葉を掻き集めているのに、つぎの朝には、はらはらと落ちた新たな落ち葉が地面を飾っている。いまは、若葉のまま落ちてくるものが多く、黄色や茶色に紅葉?というか早熟な落ち葉は少ないけれど確実に増えている気がする。よく考えると、立秋を過ぎているので、このような秋の兆しがところどころに現われていてもおかしくないのだと、ひとりで納得した気がした。

   栗の木の下の落葉を掃きながら花序はもうないなと思っていると、まだ黄緑の初々しい栗の実の赤子をみつけた。屈んでよく観察しているとぽつりと頭に落ちてくるものがあった。どうやら、つぎの栗の赤子がぽつりと頭に落ちてきたようだった。外に出るときは、何が降ってくるかわからないので大抵フードを被っているのだけれども、ぽつりととても柔らかいやさしい感じを体感した。外観はまさに栗の棘のようなので手に刺さると痛そうだと思って恐る恐る手に取ってみたら、まだ棘自体が赤ちゃんのようでやわらかく、棘のようなかたちの若葉のようだと思った。手に乗せて眺めているうちに、この自然物は、棘のイメージからかどこかしら海洋生物の系譜を受け継いでいるのではないかということを思い描いた。森がいつの間にか海になり、海が森に変わったらどうなるのだろうと思いつつ、栗の毬がウニの棘に似ていることの不思議さに何か意味を見出そうとしていることに気付いた。

   「ウバユリ」は、いくつもの株は離れたところにあるにもかかわらず、一斉に花を落とし、花から種子を形成する段階に入ったようだ。視覚を使わずに、想像のなかで地面からニョッキリ出てくる植物的なる造形物の茎の先端に有機的かたちを頭に思い描いたら、まさにこうなるという模範解答のような外観をしていると思った。しかし、これは外側からの造形ではなく、内側から自然に必然的に生まれたかたちなんだということを思い返し、この内側からのあふれるような力強さを体得したいものだと考えた。

 「早寝早起きと規則正しい食事」









2013年7月15日月曜日

森の花鳥風月 003



   

   今朝は曇り。雲を通してびっしりと重なり合った葉と葉の隙間から徐々に白い光りが届くようで、若葉の緑のちがいによって次第に森の奥行きが明らかになるようだった。さらさらとした雲のためか天空との階梯となるような鮮明な光の痕跡はない。

   昨日も早朝は雲が流れているようでしっかりとした夏の光をみることはできなかった。しかし、午前中の光を捕まえようと外へ出るとところどころに日だまりがあった。七月の空気のなかの際立った光と陰の景色は、ほんの一瞬しかあらわれないと考えて写真を撮った。午後は曇り気味だったので、偶然午前中に見ることのできた梅雨のあとの夏になり立ての光がとても貴重だと思った。光や空気のようなものを切り取って、いまこの時にここの場所にいることを表すことができれば一つの表現として成立するのではないかと考えたことを思い出した。光や空気だけでなく風や音までもと考えながら、結局自分の五感に問い合わせをしていることに気付いた。まず、光と空気によって地表の湿気や感触あるいは植物の元気さ加減を捕捉できるのではないかと思った。

   先週は沢山の白い花を巡って蜂が忙しげに行ったり来たりしていたが、今週は大分散ってしまったため数少ない白く可憐に思える野苺の花に蝶が戯れていた。外に出たはじめは気付かなかったが、いつもの落ち葉に混ざって、正確に梅雨の終わりを告げるように栗の花が散在していた。植物図鑑と照合すると、花の構造は無数の花がついた尾状花序に分類されるのだろうと思った。そのほとんどの落下した花は雄花だけの花序で、新枝の付け根に雌花をもつ雄雌同株の花は恵みの果実の季節まで上空にとどまっているようだ。ことばからしらべてみると、栗花落とは、「つゆり」と読み、梅雨の到来を示すことがわかった。改めていつの間にか夏になって抜け殻のように落下した栗の花をみると雄花だけの花序が選択されていること気付き、その選択の巧妙さを不思議だと感じた。そもそもなぜ雄花だけの花序があるのだろうと思い至った。と同時に、これらの花々も蜜源植物ということなので、人の目の届かない蜜蜂の空域で着実に自然の営みに寄与していたと考えると自然の奥深さと自分の無知さに少し頭がくらくらした。

「早寝早起きと規則正しい食事」 「マイニチ少しずつ行動すること」






2013年7月2日火曜日

森の花鳥風月 002



今朝は深夜から目覚めたまま、気がつくと辺りに野鳥のさえずりが響いていた。霧はなく、風もない。森の遥か向こうでようやく朝日がのぼりはじめたばかりなので、びっしりと重なり合った真っ黒な幹と若葉の隙間からかろうじて白く浮かび上がる空が見えるだけである。

真っ黒な中でも、よく目を凝らすと、幹と葉、さらに木々の奥行きが理解できることが不思議だ。近くの葉は一枚一枚を確認できそうであり遠くの葉は一群の塊に見える。一方、遠くの木には密度の細かい隙間を、近くの木には密度の荒い隙間を感じ取っているようだと思った。この森では木々が密集しているので、一本の木が独立して立っている姿を思い描くことが以外に難しいことだと思った。ここ木をそのまま一本だけ描くと、幹の天辺に向かって数回分岐している幹より幾分小さな枝にそってさらにもう一段階小さな枝があってそのそれぞれの小枝を起点にさらに小さな枝があってそこから空へ展開するように若葉が一枚一枚ついている。都会の街路に一本だけで立っているのとは違って、どうも幹や枝、たぶん根でつながり合っているように思えてならない。そう考えると、とたんに一本の木の輪郭が曖昧になって、自分が森の何をみているのか、びっしりと折り重なった若葉がどっと迫ってくるような気がした。

急がしそうな野鳥から目を離すと、ぱらぱらとすでにして若葉が落ちていた。ほんの少しだけ、あたかもだれにも気付かれないように落葉していた。昨夜来の雨で既存の落ち葉は、茶褐色に変化しているので、朝露に濡れた落ちたばかりの若葉が瑞々しく目に飛び込んできた。こらから夏を迎えるというのに、もう落葉による堆肥の準備が着々と進行しているのだろうかと,驚いて慌てて写真撮影した。一年の循環過程の中で生きてきたと思っていたけれど、木々の自然な振る舞いを考えると、いかに歪な時間の使い方や仕事の仕方をしてきたのかと自分の生活を振り返った。特に、仕事の分量は、このぐらいのバランスでいいんだと肚に据えて理解しようと思った。過剰すぎることを理解し、重すぎる生活を改善したいものだと思った。

「やりすぎないこと」「毎日やること」 「マイニチ少しずつやること」